久しぶりにユージン・ミヨコさんとお出かけ。江ノ電の鎌倉高校前から歩こうくらいしか決めていなかったので、とりあえず新江ノ島水族館に行った。これで2度目。展示は変わっていないようなので、イルカショーを見る。これはずいぶん変わっていた。
 まず、トレーナーの女性が4人いる。しかもお決まりのウエットスーツではなく、カラフルでしかもチューブを絡ませたようなスカートが付いている。そして踊りながらイルカたちに指示を出す。でも、どれがそうなのかは分からない。やがて彼女たちもプールに入ると、スカートがはずれ直径1.5メートルくらいの輪になる。水面にういたこの輪をイルカが水中をくぐってジャンプし内側から跳び越える。輪の中にはトレーナーがいるので、彼女の前すれすれを跳ぶことになる。お互い信頼しあってないとできないよなあと、感心した。
 それから、ペンギンを見る。何匹もいるペンギンに平等に餌を与えなければならないので、固体を識別するために羽の付け根に色違いのタグを付ける。さて、実際にえさをやって、どのペンギンが食べるのかお客さんに見てもらおうという企画だ。黄色いタグはチョキ、青いタグがグー、白いタグがヒカル。思わず「優雅は?」と突っ込んでしまった。そのほか何羽もいたのだが、6回餌が投げられて、4回チョキが食べた。食い意地にも個体差があるものだ。
 あまり展示は見なかったが、イルカとペンギンだけで充分に楽しかった。子どもだけでなく、水槽を覗くおとなの目は優しく、イルカのショーを見る目は輝いていた。ペンギンが餌を食べるのを見るのが、どうしてあんなに面白いのだろう。
 餌を食べるのを見るのが面白いのは、本能が共鳴するからではないだろうか。食べることは、命をささえる行為だ。人間もペンギンも変わらない。そのことに気づき、共鳴するのではないだろうか。
 イルカのショーを見て目が輝くのは、人間がどんなに努力をしても得られない身体能力への、素直な畏敬の念の表れではないだろうか。人間は万能ではない。実は多くのことを動物や植物、自然の事象から学び科学や文化や芸術や医学や、あらゆることを進歩、発展させてきたのではないか。

 水族館に行って、そんなことを考えた。

 ミナゾウくんが急死してしまって、やっぱり寂しかったよ。

 さて、どこで昼飯を食うのか、ということで、ミヨコさんは以前に行った崖の上のイタリアンレストランに行きたいという。でも、それならもっと早く行ったほうがよかったのでは。今からだと、きっと並ぶ。わたしは腹ペコだ。目の前にファミレスあるし。
 江ノ電で鎌倉高校前に行き、そこからご丁寧に海岸を歩いて七里ガ浜に向かい、崖の上のレストランに行った。案の定、待った。わたしはいつもは待ってまで食事がしたいとは思わない。でも、今日は待ってよかった。海を一望しながら、ゆったりと食事をするのは、至福の時だった。混んでいるのだけれど、料理が出てくるのに時間がかかるので、ゆっくりすることになる。マルゲリータはやっぱりおいしかった。好んでピザを食べることはあまりないが、パンみたいに厚い生地はいやだ。ここの生地は薄くて、周りはパリパリ。だから、大きさのわりに胃にこない。デザートのチーズケーキもおいしくて、ブラックコーヒーがよく合った。風は強かったけど、天気は最高、眺めも最高、食事も最高。本当に待ってよかった。崖の上なので、たどり着くのにひと汗かいてしまうのだが。

「ビストロ」
 キヨとノリだからなあ。シェフが目に入らないのは分かっていたことだけど、オーナーはよだれをたらしそうだった。
 清原はパ・リーグ向きだって。髪の色抜こうがピアスしようが眉を剃ろうが、やかましいのはノムさんぐらいで、ファンも含めてほかの人たちはたいして気にしないし、うるさくも言わない。野球してくれればいいです。とにかく、おかえり。

「音松くん」
 脂汗かいてるスマさんたちを横目に、森脇さんと森口さんが少しもひるんでいないのが、すごかった。あ、ゴローちゃんもけっこう吹っ切れていたかな。リーダーのひと言で、かたまって難局を乗り切ろうとするスマさんたちが微笑ましかった。

 かつて「ビストロのゲストで一番きれいだと思ったのは誰ですか」という質問に、中居くんは「大地真央さん」と答えていた。「こんなきれいな人がいるのかと思った」。
 その大地真央さんが来週のゲスト。前回いらしたときは、松平健さんの奥様だったんだなあ。うーん。万物は変転するってことでしょうか。←違う。

 昨日、医療刑務所のルポを見た。テレビカメラが入るのは初めてのことだそうだ。一般の刑務所では対処しきれなくなった重篤な受刑者が運ばれてくる。直ってもとの刑務所に戻る受刑者もいるが、死んで外に出る者も多い。そして、そこにいるのは命が尽きようとしている病人でありながら、面会に来る家族はいない。看取るのは刑務官と医師と看護師だ。
 覚せい剤で4年の刑期の受刑者は、肺がんが上半身に転移している。捕まったときに1歳だった子どもは4歳になっているはずだとういう。会いたい。だが彼は、生きて外には出られなかった。子どもには会えなかった。
 直腸がんの手術をした受刑者は、妹さんが身元引受人になってくれるというので、出所できるのだと喜ぶ。だが、現実は厳しい。余命6ヶ月だと妹さんは言う。出所できても、彼に人生をやり直す時間は、もう残っていない。
 違法な金貸しで捕まった暴力団員は、自分の犯した罪よりも刺青の自慢話をする。体も良くなり、元の刑務所に戻って、出所できるのだという。出所後は、また暴力団に戻るそうだ。
 内縁の妻を殺し、無期懲役刑で36年間刑務所暮らしの受刑者は、被害者にすまないと思うようになったのはこの7、8年のことだと牧師に話す。それまで、自分の女を殺して何が悪いという思いがあったと。30年近い間、彼には贖罪の意識などなかったのだ。人間の性根はおいそれとは変わらない。業の深さにめまいがしそうだ。
 老いて病を得、死が目の前のものとなった今になって、彼は自分が殺したのが、同じ人間であったことに気付く。死ぬ恐怖を知る。被害者にわびる一方で、神にすがり、救われたいと願う。
 これを身勝手と思うのは、傲慢なことだろうか。それとも、死を目前にして救われたいと思うのは、最期の願いゆえに許されるのだろうか。どうすることが、罪を償うということなのだろうか。

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