課題

2006年8月7日
 広島より戻る。
 8月6日早朝の広島駅は驚くほど涼しかった。6時半まで路面電車もバスも動かない。昨年の駅前は暑かった記憶があるので、そのまま駅ホームで過ごすことにする。6時近く、朝食を調達するために駅を出たが、戸惑うほどに涼しかった。開店したばかりのコンビニでサンドイッチとシュークリーム、献花のためのシキミを買う。腹ごしらえを終え、始発の路面電車で原爆ドーム前まで行き、そこから平和記念公園に向かう。涼しかったのもここまでだ。7時を過ぎ、会場が参列者で埋まり始めると、遮るもののない高さに昇った太陽が、人を選ばず照りつける。それは61年前のこの日、比類のない灼熱に焼かれて死んだ人びとの咆哮とも思える。
 わたしの前には外国人の男女が座っていて、式典中、跳び上がったバッタが男性の肩あたりに留まった。被爆後70年は草一本生えないといわれたヒロシマには、さまざまに命が溢れている。敷き詰められた芝生から草いきれが萌え立ち、木々は濃い緑陰を作る。今生きる命の中に、奪われた命の声を聴く。
 今年の子ども代表のひとりは、アメリカ国籍を持つ少女だった。日本とアメリカ。二つの国籍、二つの祖国を持つ少女は、何を考え、何を得たのだろう。彼女だから発信できるメッセージがある。きっと気付く。そう信じる。
 式典が終了すると、まずVIPと称される人びとがSPに護られながら退場する。小泉純一郎もその一人だ。彼は在任期間中皆勤だったのを鼻にかけているようだ。昨年は被爆60周年ということもあり、内閣総理大臣、衆参両院議長、最高裁長官と三権の長が一堂に会した。式典終了後、衆院議長や厚生労相が原爆養護ホームを訪問したが、内閣総理大臣は福山市の中川美術館に向かった。被爆者の声よりも、自分の趣味が最優先だったわけだ。点呼のときに返事だけして教室を抜け出す学生にも劣る愚挙だ。  今、日本に戦争が起こっても、彼は人間の壁に護られる。だから、耐えがたきを耐え、尽くし、信じた国に護ってもらえなかった人びとの声など、斟酌する発想すら持たないのではないか。戦争で死ぬのは軍人だけではない。犠牲は常に戦闘力を持たない弱者に集中する。靖国に固執する以前に、一国の長として平和のために成すべきことが逼迫しているのだ。あなたが尽くすべきなのは、今生きている国民ではないのか。
 昼食は資料館に併設された喫茶所で弁当を買った。外で食べていると、被爆アオギリの周りでイベントが行われていた。終了後、青年がわたしの隣にいた年配の男性に話しかけてきた。大学の学習の一環で、話を聴いているのだという。どこから来たのかや、祈念式典についてなどの問いに、男性の言葉は少なかった。最後に学生が尋ねた。「僕たち若者に欠けているのは何だと思いますか」。男性の答えはなかったようだ。
 わたしはとうに若者ではないが、戦争を知らないという一点で包括される。わたしを含めて欠けているのは、想像力ではないか。殺される恐怖。殺すおぞましさ。頭上から降り注ぐ焼夷弾。すぐ隣にいた人の顔半分がない。家族も友人も人間の形をとどめずに死んだ。大切なものは全て燃えた。焼け焦げた臭い、溢れる腐臭。
 個人的に何の恨みもない人間に銃口を向け、引き鉄を引く。その感触。合わせた照準の向こうに、自分と同じ人間がいる。開いた爆弾の投下口の下に、あらゆる生命の営みある。それを奪う。殺し、焼き尽くす。発狂しないために、思考を止め、良心を捨てる。
 できるのは想像することだけだ。体験してはいけないのだ。矛盾の中で呻吟し、溢れる情報から賢明に取捨する。知り、考える努力を惜しまない。地道に費やされる労力の結果として得られる平和に行き着く。たとえ想像で作り出した仮想の体験であっても、平和を考える糧であることにかわりはないだろう。

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